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COLLECTION DETAILS収蔵品詳細

プロヴァンス伯爵 The Count of Provence

1786年/油彩、カンヴァス

146.0×100.0cm

展示中

西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで

会期:2025年01月11日 (SAT)2025年03月23日 (SUN)

東京富士美術館:新館・常設展示室2

西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで
会期:2025年04月12日 (SAT)2025年06月22日 (SUN)
東京富士美術館:新館・常設展示室3

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教育 非商用 商用

SUMMARY作品解説

本作に付属した資料によれば、この作品はアントワーヌ=フランソワ・カレが聖霊騎士団長の服を着た国王ルイ16世を描いた肖像画ということになる。同資料によるとカンヴァスの裏には、今は裏打ちされているために読めないが、「カレ、1786」と署名と年記があるとされる。描かれた人物は、はたして資料の言うようにルイ16世なのだろうか。 ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルは『ダヴィッドからドラクロワ』展のカタログで、カレの正装の《ルイ16世》(クレルモン=フェラン、バルゴワン美術館[20世紀末に絵画コレクションは新設のロジェ=キヨ美術館に移行])に詳細な解説を施した。カレは1778年に国王の肖像画の最初の注文を受けて翌年に完成させ、陸軍省に設置された。さらに外務大臣のヴェルジェンヌ伯爵から国王の肖像画の制作を依頼されたが、それは外国の宮廷などに贈られる多数の模写作品の原画になったという。当時は美術アカデミー会員の監督のもとに、王室の人々の質の高い肖像画を複製する任務を負った肖像画工房(キャビネ・ド・ロワ)が存在していた。さらに、1789年のサロンにはカレが《国王の肖像》と《王弟の肖像》を出品したことがリヴレに残されており、こうしたカレの多数の国王像の来歴を明らかにすることの難しさを指摘しつつ、クレルモン=フェランの作品がサロンの出品作ではないかと推測している。 2007年の『公的肖像、私的肖像』展のカタログでは、セバスチアン・アラールはジュヌヴィエーヴ・ラカンブルを受け継ぎつつ、カレの数多い《ルイ16世》の中で作品の高い質から、クレルモン=フェランの作品をカレの自筆に近い作品とした。アラールはイアサント・リゴーの《ルイ14世の肖像》(1701年、ルーヴル美術館)が、人であるばかりでなく不滅の権力の化身としての国王の肖像画の祖型となり、後世の国王像を規制したという。たしかに、カレの国王の肖像は、王笏や王冠や正義の手などのレガリアとともに、権力を象徴する大きな円柱の前に国王を描くという定法を一歩も踏み越してはいない。 ところで、2016年にヴェルサイユ美術館はカレの《正装のルイ16世》を購入しており、これは1779年の作で陸軍省のために描かれた作品の縮小版とされている。それはともかくとして、それらの顔貌はすべて共通し、さらにカレより一世代年長のジョゼフ=シフレ・デュプレシ(Joseph-Siffred Duplessis, 1725-1802)はルイ16世治世期のもっとも重要な肖像画家だが、1776年に《正装のルイ16世》を描き翌年のサロンに展示した。原作の所在は不明だが、画家自身によるレプリカがヴェルサイユ宮殿美術館に残り、顔立ちはカレの肖像画と共通する。だが、本作はそれらとはまったく異なった相貌を映しだす。 ところで『À travers champs』によれば、グルノーブル美術館からヴィジルVizilleのフランス革命博物館に寄託されたカレの肖像画がある。1788年に描いたとされるこの作品のモデルについては、ルイ16世なのか、それとも王弟で後にルイ18世となるプロヴァンス伯爵(1755-1824)か、議論があったという。フランス革命期の美術やダヴィッドの研究で知られる故フィリップ・ボルデス教授は、早くからプロヴァンス伯爵の肖像としており、今日はそれが通説となっているようである。本作は、まさにこの肖像画の相貌と瓜二つで、デュプレシが描いた《プロヴァンス伯爵》の顔立ちにも通じている。さらに、アデライード・ラビーユ=ギアール(Adélaïde Labille-Guiard, 1749-1803)の《ルイ16世の弟殿下による騎士章の授与》(パリ、レジオン・ドヌール勲章博物館)は、王弟プロヴァンス伯爵が聖ラザロ騎士団の騎士章を授与する場面で、女性画家が革命前に描いた大作のエスキースである。革命後に焼却されて残っていない原作を知るための数少ない資料である。興味深いのはこの作品が、長らくカレが描いた、プロヴァンス伯爵が聖霊騎士団騎士の宣誓を受領する場面と考えられていたことである。この作品の豊かな頬の下膨れをした伯爵の顔立ちは、本作のモデルと共通する。この作品のモデルはプロヴァンス伯爵とするのが妥当であろう。 問題は、プロヴァンス伯爵の肖像画にレガリアが描きこまれている点である。ルイ16世には王太子ルイ=ジョゼフ・ド・フランス(1781-1789)がいた。後継者の像というのはあたるまい。たとえば、フランソワ=ユベール・ドルエ(François-Hubert Drouais, 1727-1775)が1774年頃に描いたとされる《聖霊騎士団章をつけたプロヴァンス伯爵》(ヴェルサイユ宮殿美術館)には、レガリアは描かれていない。 革命直前の政情不安の時代、王族の一員としての表象の意味が込められたか。国王の肖像のように、レガリアを手にしていないことに意味があるのか、ヴィジルの作品と本作の関係など、なお資料の調査研究がこれらの問題を解決するためには必要である。

ARTIST作家解説

アントワーヌ=フランソワ・カレ

Antoine-François Callet1741-1823

フランス革命前夜から復古王政初期まで活動した歴史画家で、古典古代文学のテーマや同時代の事件を古代の神々を交えて描いた。さらに国王の肖像画なども制作したが、新しい美術の潮流には関心を払わず伝統的な手法を踏襲し、古色蒼然とした印象は否めない。 1764年に《ユノ神殿に母親を車で連れていくクレオビスとビトン》(パリ、国立高等美術学校)でローマ賞大賞を受賞した。これはヘロドトスの『歴史』(第一巻)に記された、クレオビスとビトンの二兄弟が、母親が巫女を務めるユノ(ヘラ)神殿まで長い道のりを牛に替わって車を引いて連れて行ったという子どもの母親への愛情を示す逸話で、トマ・ブランシェなどフランス画家が17世紀以来描いてきたテーマである。 歴史画家として1777年に美術アカデミーの準会員となり、1780年に《春、キュベレに花を飾るゼフュロスとフローラ》で正会員になった。この作品はシャルル・ル・ブランが企てて未完のままに残されたルーヴル宮殿の「アポロンの間(ギャラリー)」を飾る四季連作のひとつで、翌年のサロンに展示され、今もアポロンの間の天井を飾っている。現在は王冠などの宝飾品が展示されているこのギャラリーの天井装飾は、長年未完のままだった中央部分をドラクロワが《大蛇ピュトンを殺すアポロン》を描いたことで、1851年にようやく完成した。カレは、その後、ジェノヴァを訪れてスピノーラ宮殿の天井画の制作をして、帰国後は肖像画、とくに国王ルイ16世の肖像や古代趣味の作品を描いた。1785年のサロンに出品した《ヘクトルの死体を引いてトロイアの市壁を回るアキレウス》(『イーリアス』22)(ルーヴル美術館、保存状態悪し)やゴブラン織りの原画となった「四季」連作は、その代表的なものである。 フランス革命後は、古代趣味の作品を描きつつ、ナポレオン・ボナパルトの輝かしい軍功を寓意画に仕立てることに精力を注いだ。《マレンゴの戦い》、《アウステルリッツの戦い》、《ウルムの降伏》、これらはいずれも1800年から1815年の制作で、ヴェルサイユ宮殿美術館にある。復古王政期にはかつてのアカデミー会員、つまり国王付き画家として何点か作品の注文を受けた。 1823年に亡くなったとき、芸術や文学を扱った日刊紙『ラ・パンドール La Pandore』の追悼文は次のように記している。 「カレ氏の才能は古い時代の流派を想起させるものである。表現様式(スティル)の欠如と色彩の弱さがこのアカデミー会員の大きな欠点で、ルイ15世時代の芸術の伝統として復活したフランス画派の体現者として、今日まで活動してきた。紳士たるにふさわしい美徳を備えたカレ氏は、たくさんの良き友人に恵まれ、その死が悼まれることだろう」。

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