フランソワ=ジョゼフ・キンソンに帰属( Attributed to François-Joseph Kinson (1770-1839))の作品が 1件見つかりました。
Attributed to François-Joseph Kinson (1770-1839) 1770-1839
ベルギーのブリュージュ(ブルッヘ)に生まれ、肖像画家として活躍した。 ヤン・ファン・エイクが活動した古都ブリュージュのアカデミーで絵画を学び、ヘントとブリュッセルで声価をあげた。1799年のパリのサロンに出品して名声を博し、ブリュージュ出身で新古典主義の画家としてダヴィッドのライヴァルだったジョゼフ=ブノワ・シュヴェ(Joseph-Benoît Suvée, 1743-1807)の勧めでパリに居を定めた。豊かなブルジョワが顧客となった。初期の作品《妻の肖像》は、簡素な室内に滑らかな絵肌でモデルを描き、シュヴェの表現を彷彿とさせる。刺繍などの精緻な描写は、フランドルの写実主義の伝統をくむもので、キンソンの肖像画に共通して見られる特質である。 帝政期にはナポレオンの廷臣たちの肖像画を描き、ナポレオンの末弟ジェローム・ボナパルト(1784-1860)が1807年にウェストファリア王国の国王になると、翌年にその宮廷画家となって王国の首都カッセルに1810年に移った。ナポレオンがチュイルリー宮殿のディアナのギャラリーを王妃たちの肖像画を飾る場所にしようとして、当時の代表的な画家に作品を依頼したとき、キンソンはウェストファリア王国王妃となったカトリーヌ・ド・ヴュルテンベール(1783-1835)の肖像を描いた。《ヴィルヘルムスヘーエ城の庭の前のジェローム・ボナパルト夫妻》は、衣装の精密な描写とともに人物と自然の景観を組み合わせ、キンソンが典雅な描写を志向するようになったことを明らかにする。 ジェロームが失脚するとパリに戻り、1816年にはアングレーム公ルイ=アントワーヌ・ダルトワ(1775-1844)の画家になった。翌年には、東ローマ帝国の悲運の将軍を題材にした現存する唯一の歴史画《妻の死の床の前のべリサリウス》を描いた。質素な室内を舞台に、老将軍を中心にしたピラミッド型の人物構成、彫像のような人体表現、滑らかな絵肌など新古典主義美術の規範に忠実である。 1820年からはブリュッセルやヘントのサロンにも定期的に出品して、高い評価を受けた。1827年のパリのサロン出品作《アムロ・ド・シャイヨ侯爵夫人と子どもたち》は、17世紀フランドルの肖像画の伝統を思い出させる堂々とした家族の肖像で、かれの肖像画の頂点のひとつといえよう。7月革命がおこった1830年にブリュージュに帰郷して生涯を終えた。