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エミール=ジャン=オラース・ヴェルネ( Emile-Jean-Horace Vernet)の作品が 2件見つかりました。

エミール=ジャン=オラース・ヴェルネ

Emile-Jean-Horace Vernet 1789-1863

18世紀半ばから19世紀にかけて活動した重要な画家一族の三代目で、最後の画家。 祖父は写実的な表現と嵐や難破のテーマによって、18世紀の風景画を新しい領域へ導いたクロード=ジョゼフ・ヴェルネ(Claude-Joseph Vernet、1714年-1789年)、父はアントワーヌ・シャルル・オラース・ヴェルネ、通称カルル・ヴェルネ(Antoine Charles Horace Vernet, dit Carle Vernet、1758年-1836年)である。カルルは歴史画家として訓練を受け、1782年にローマ賞大賞を受賞してローマに留学した。リトグラフの開拓者のひとりで、世相を正確に誇張することなく描写した。《ロンシャンの散歩》(1803年)は代表作である。一方、戦争画も残しており、ナポレオンの戦役では《マレンゴの戦い》(ヴェルサイユ宮殿美術館)などが知られる。さらに競馬や狩猟の画面も描いた。 オラースは初め父の下で絵を学び、その友人であった新古典主義を代表する画家フランソワ=アンドレ・ヴァンサン(François-André Vincent, Paris, 1746-Paris, 1816)に1810年まで学んだ。コレージュ・ド・カトル・ナシオンで教育を受けており、教養人でもあった。父を継いで戦争の場面を描き、馬を好んで取り上げた(《競馬の出走》、1820年頃、ニューヨーク、メトロポリタン美術館)。父カルルに1808年から学んだテオドール・ジェリコ―との親交も、オラースの制作を考えるには重要であろう。ボードレールは軍隊が嫌いで、ヴェルネの人気と自然主義を批判し、「オラース・ヴェルネ氏は絵を描く軍人だ」と述べている。 かれは1812年にパリ防衛の功績から、ナポレオンからレジオン・ドヌール勲章を受けた。この経験は《クリシーの門》(1820年、ルーヴル美術館)に結実する。ところが1822年のサロンに出品しようとしたこの傑作は、反王権的という理由で他の6点とともに展示を拒否された。かれはアトリエで40点余りを展示することに決め、多くの人が詰めかけたという。国王シャルル10世はオラースを認め、1826年にレジオン・ドヌール勲章を授け、学士院会員に選出した。《ヴァチカンの装飾を命じるユリウス2世》をルーヴルの天井画として完成させると、1827年のサロンにフランス王フィリップ2世が神聖ローマ帝国などの連合軍に勝利した《ブーヴィーヌの戦い》(ヴェルサイユ宮殿美術館)を出品して喝采を博した。翌28年からはローマのフランス・アカデミーの院長を、ドミニク・アングルに交代する34年まで務めた。 1835年以降、復古王政以来オラースの庇護者であったルイ=フィリップがヴェルサイユ宮殿に設けた歴史美術館のために、第一帝政下の《近衛兵を閲兵するナポレオン》(1836年)や《ワグラムの戦い》(1837年)を、同時代のアルジェリア戦役から《コンスタンティノープルの攻囲、1837年》(1838年)など大作の注文を受けた。かれは1833年以降、しばしばアルジェリアを訪れているが、近東への関心はその風俗とともに聖書の背景を知りたいというかれの意思を表すものといえよう。広大な戦場で繰り広げられる戦闘の迫力があり精緻な描写、野営地での兵士たちの暮らし、異国の風俗、軍人の肖像などにかれの個性が刻まれた。宗教画や風俗画も手がけている。 1855年のパリ万国博の絵画展では、アングルやドラクロワとともに大家のひとりとして特別室を与えられて作品を展示した。 1862年12月、画家が重篤だと知ったナポレオン3世は、レジオン・ドヌール勲章のグランオフィシエ賞を授けた。翌1月17日、栄光に包まれ尊敬を集めた画家は亡くなった。

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