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COLLECTION DETAILS収蔵品詳細

フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日 Napoleon at Fontainebleau, 31 March 1814

1840年代/油彩、カンヴァス

68.0×52.1cm

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教育 非商用 商用

SUMMARY作品解説

《フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日》は、ポール・ドラローシュがナポレオンを題材に描いた二番目の作品になる。第一作の《書斎のナポレオン》が、イギリスの老貴族婦人サンドウィッチ伯爵夫人からの注文制作であったように、この作品もライプツィヒでフランスの絹製品を扱う商人であったアドルフ・ハインリヒ・シュレター(Adolf Heinrich Schletter, 1793-1853)から依頼された。シュレターの注文の背景は未詳だが、かれは美術のコレクターでもあって、80点の絵画と17点の彫刻をライプツィヒ市に遺贈し、この作品は現在ライプツィヒ造型美術館に収蔵されている。つまり原作はいまライプツィヒにある。原作に基づいてドラローシュがすこし縮小して模写した作品がパリの軍事美術館にあり、本作はナポレオン人気にあやかってかれと工房が手掛けた模写のひとつといえよう。パリの軍事美術館の作品は縦横がそれぞれ181センチメートルと137センチメートルであるから、本作はその半分より小さいということになるが、出来栄えはなかなかに見事である。 サンドウィッチ伯爵夫人の注文した《書斎のナポレオン》は、原作の所在地はいまわからないが、それに基づくアリスチド・ルイの版画は、ロンドンの大英博物館に残る。それを見ると、ダヴィッドがイギリスのナポレオン讃美者ハミルトン卿の注文を1811年に受けて翌年に完成させた《チュイルリー宮殿の書斎のナポレオン》(1954年にサミュエル・クレスが購入しワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵)を手本にしていることはまちがいない。短くなったろうそくの下、朝の4時過ぎまで仕事をする、近衛騎兵隊の制服をまとって勲章を付けた、やや身体を画面左手に向けた精悍な姿が描写される。1812年末、ナポレオンはロシア遠征に失敗して凋落が始まるが、その前の覇気に満ちた皇帝像といえよう。伯爵夫人は縁故から制服やサーベルや煙草入れなど、ナポレオンが着用したものを借りて、画家を助けた。全身像と半身像、舞台装置など異動する点があるのは確かだが、繰り返しになるが、ドラローシュがダヴィッドの作品を参照したことはまちがいない。 さて、《フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日》は、同盟軍がパリに入場した3月31日、フォンテーヌブロー宮殿の小アパルトマンに逃れてきた皇帝を描く。憔悴し怒っているようにも見えるのは、かれの置かれた状況を反映している。土埃が付着したままの靴、床に投げ出された帽子、ソファの上に無造作に置かれた書類カバン、円卓の上のサーベル、これらが皇帝の表情や仕草とともに苦境を明示する。肥満した老齢の皇帝は、かつての精悍な風貌からは程遠い。 シュレターがなぜ苦境の皇帝像を注文したかはわからない。パリの軍事美術館のカタログによれば、作品の制作年は1840年である。しかるに1999年から2000年にナントとモンペリエで行われた『ポール・ドラローシュ、歴史の中の画家』展では、ケント大学のシュテファン・バンはシェルターへの支払いの記録が1845年であることを手掛かりのひとつとして、1845年の制作としている。支払いの期日と制作年を同一と考えることは問題があるが、画家は栄光の英雄ではなく不幸な英雄、殉教のイメージの創造に腐心したとする。妻がこの年の12月に亡くなるなど、妻の容態などの身辺の事情もその判定に与っているようである。ただ、画家は制作上の挫折などはこの時期は無縁だったように感じられる。 この作品をロダンの《考える人》の祖型と指摘したドイツの美術史家ヴェルナー・ホフマンの見解があることを加えておきたい。造型の特徴とともに、絵画の将来に心を砕いたドラローシュの心情を、それはくみ取っての卓見といえよう。 この工房作は、明暗のコントラストなど原作より強調され、皇帝の置かれた苦境をより強烈に表現する。ドラローシュとアカデミスムの画家たちの確とした技量を証しする作品といえよう。

ARTIST作家解説

イポリト=ポール・ドラローシュと工房

Hippolyte-Paul Delaroche and his workshop1797-1856

19世紀フランス美術におけるアカデミスムの展開におおきな役割を演じた画家のひとり。父のグレゴワール=イポリト・ドラローシュ(Grégoire-Hippolyte Delaroche, 1761-1839)は著名な画商で、おじには王立図書館版画部門の学芸員がいた。 1816年に美術学校に入学して、ルイ=エチエンヌ・ヴァトレ (Louis-Etienne Watelet, 1786-1866)のアトリエに学んだ。ヴァトレは歴史風景画の画家で、ローマ賞大賞歴史風景画部門の最初のコンクールの開催はこの年であった。ドラローシュは馴染めなかったのか、1818年にはアントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros, 1771-1835)のアトリエに入った。グロはダヴィッドに学び、師がベルギーに亡命後は新古典主義美術の領袖となったが、ドラクロワの才能をいち早く認めたひとりでもあった。新古典主義的でもロマン主義的でもない折衷的としばしば批判されたドラローシュの表現は、個人の資質とともにグロの影響もあったにちがいない。 初めてサロンに参加したのは1822年のことで、旧約聖書の『列王記下』(11)に語られるイスラエル王ヨアシュの幼少時代のエピソードを描いた《ヨシュバに救われるヨアシュ》(トロワ美術館)は、ジェリコーが高く評価した。ドラクロワもこの年《地獄のダンテとウェルギリウス》(ルーヴル美術館)で、サロンにデビューしている。1824年のサロンには《監獄でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク》(ルーアン美術館)などを展示し、その後サロンには続けて参加した。シェークスピアなど当時のフランスのイギリスへの関心を背景に、1827年には《エリザベス女王の死》(ルーヴル美術館)を出品したが、これがイギリス史を題材にした作品の始発となった。1831年のサロンには《エドワード5世と弟のヨーク公》(ルーヴル美術館)、1833年には《ジェーン・グレイの処刑》(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を出品して公衆から熱狂された。ロンドンに留学した夏目漱石はその経験を書いた『ロンドン塔』(1901年)で、これらの作品に触れて作者ドラローシ(ドラローシュ)の名をあげている。 1830年の7月革命では、アングルやドラクロワらとともに暴動の襲撃からルーヴルを守り、1832年には美術アカデミーの会員、翌年には教授に選ばれ、トマ・クチュールやジャン=レオン・ジェロームなど後にポンピエと呼ばれるアカデミスムの中心となる画家を教えた。フランス史を題材にした作品には、1830年の《マザランの死》(ウォレス・コレクション)、1833年にはオルレアン公から注文された《ギーズ公の暗殺》などがある。 1833年にパリのマドレーヌ聖堂の装飾を依頼され、翌年に調査のためにイタリアへ赴いた。1835年に帰国する前にローマでオラース・ヴェルネの娘ルイーズと結婚した。 1836年、義父のヴェルネとともに審査が不公平という理由でサロンには参加せず、終生作品を送らなかった。この年にかれの代表作で美術観の表明ともなったパリの美術学校の半円形講堂(エミシクル)の壁画の注文を受けた。ラファエロの《アテネの学堂》(ヴァティカン宮殿)とアングルの《ホメロス礼讃》(ルーヴル美術館)を手本に、フィディアスとイクティノスとアペレスという、古代ギリシアの彫刻家、建築家、画家を一段高く中央に据え、ドラローシュが選んだ総計75名のヨーロッパ各国の芸術家を左右に配した。 ドラローシュがイギリスの老貴族サンドウィッチ侯爵夫人から《書斎のナポレオン》の注文を受けたのは1838年で、これが生涯にわたってかれが描き継ぐナポレオン像の始発となった。侯爵夫人の次女カトリーヌ・カロリーヌは、ナポレオンがポーランド女性との間に設けたアレクサンドル・コロンナ・ワレフスキ(Alexandre Colonna Walewski, 1810-1868)と1831年に結婚している。 美術学校の壁画は1841年7月に披露されて大きな反響を呼び、かれはウィーンやローマ、アムステルダム、サンクトペテルブルクなど各地のアカデミー会員に選ばれた。 肖像画の制作が増えて、著名な美術愛好家《ジェムス=アレクサンドル・ド・プルタレス=ゴルジエ》(1846年、ルーヴル美術館)は正確で精密な描写、大理石のように冷ややかな筆触などアングルに比肩する出来栄えである。早すぎる妻の死を描いた《死の床の画家の妻、ルイーズ・ヴェルネ》(1845年、ナント美術館)と《若き殉教者》(1854-1855年、ルーヴル美術館)は、かれの夢想的、幻想的なものへの接近を示す作品である。 1856年11月に息子たちが見守るなか59歳の生涯を閉じた。

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