1840年/油彩、カンヴァス
64.0×53.0cm
SUMMARY作品解説
デミドフ旧蔵のオラース・ヴェルネ自筆の貴重な作品である。 1840年12月15日、100万人もの人が見守るなか、雪に覆われたパリをナポレオンの遺骸は凱旋してアンヴァリッドに到着した。1815年にセント=ヘレナ島に幽閉されて1821年5月5日に亡くなったナポレオンは、3重の棺に納められて厳重に密閉されていた。遺骸の発掘は25年前に島に着いたのと同じ10月に、豪雨のなか松明の火の下で行われた。 7月革命で誕生したオルレアン家のルイ・フィリップのもとで、フランスはコレラの流行や労働者の蜂起など政治的・社会的に不安定な状況に置かれていた。そうした社会でナポレオンは美化されて、愛国的で実際より左翼的なイメージが流布されていったが、それをジャーナリスト出身の政権を狙う政治家アドルフ・チエール(1797-1877)は利用しようとした。イギリスと交渉して、遺骸の返還にこぎつけたのである。フランス海軍フランソワ・ドルレアン提督が率いる戦艦「ベル・プール(美しい雌鶏)号」で移送された遺骸を、ルイ・フィリップはアンヴァリッドのドーム聖堂の地下に安置することにした。「私の愛するフランス国民に囲まれて、セーヌの岸辺に眠りたい」というナポレオンの遺言は、かくして実現した。 ナポレオンの讃美者であったオラース・ヴェルネは、画中右下の年記によれば1840年にこの作品を描いた。注文主はナポレオンの崇拝者であったアナトール・ニコラエヴィッチ・デミドフ(Anatole Nikolaïevitch Demidoff、1812-1870)である。かれは実業家で外交官であり芸術庇護者であった父ニコラ(Nicola Demidoff、1773-1828)がフィレンツェの北西に位置するポルヴェローザに、カトリック教会から購入した広大な敷地に建てたヴィラ・サン・ドナートを相続した。アナトールもドラクロワやジェリコー、ボーニントンなどに作品を注文するなど、芸術愛好家であった。1839年にはフィレンツェのヴィラ・ディ・カルトに亡命していたナポレオンの末弟で前ヴェストファーレン王国国王ジェローム・ボナパルトに紹介され、翌年にはジェロームの長女マチルド・ボナパルト(1820-1904)と結婚した。 ナポレオン崇拝者のアナトールとジェローム・ボナパルトとの出会いがヴェルネの制作の始点となっていることはまちがいないが、ナポレオンの遺骸の返還と関係するかは未詳である。さりながら、ナポレオン礼讃の根強さ根深さの貴重な証左として、記念すべき作品といえよう。これは1870年のデミドフ・コレクションの売立てのカタログに掲載されている。 闇夜のなか、柳の木が覆いかぶさる墓所の石の蓋をナポレオンが右手で開けて、オリーヴの枝を左手に持ち階段を上がってくる姿が表わされる。レジオン・ドヌール勲章が胸を飾り、赤い綬をかけたナポレオンの頭部を輝かしい光が照らす。この図像が「キリストの復活」のイメージを踏まえていることは言うまでもない。 4つの福音書は、アリマタヤのヨセフがキリストの遺体を墓に納めたが、安息日の翌日に行くと墓の上に置かれた石が取りのけられ、天使がキリストの復活を告げたことを、異同はあるものの記している。たとえばピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリストの復活》(サンセポルクロ市立美術館)は、この聖書の記述から画家が想像の翼を広げて創造した作品であり、その後のキリストの復活図のいわば祖型となった。ヴェルネは主の復活にナポレオンの帰還を重ねて、この作品を制作したのである。ナポレオンの頭部にさす光は、まさにニンブスといえよう。 ヴェルネの作品はジャン=ピエール=マリ・ジャゼ(1788-1871)が、着色アクアチントで複製しており広く流布することになった。
ARTIST作家解説
エミール=ジャン=オラース・ヴェルネ
Emile-Jean-Horace Vernet1789-1863
18世紀半ばから19世紀にかけて活動した重要な画家一族の三代目で、最後の画家。 祖父は写実的な表現と嵐や難破のテーマによって、18世紀の風景画を新しい領域へ導いたクロード=ジョゼフ・ヴェルネ(Claude-Joseph Vernet、1714年-1789年)、父はアントワーヌ・シャルル・オラース・ヴェルネ、通称カルル・ヴェルネ(Antoine Charles Horace Vernet, dit Carle Vernet、1758年-1836年)である。カルルは歴史画家として訓練を受け、1782年にローマ賞大賞を受賞してローマに留学した。リトグラフの開拓者のひとりで、世相を正確に誇張することなく描写した。《ロンシャンの散歩》(1803年)は代表作である。一方、戦争画も残しており、ナポレオンの戦役では《マレンゴの戦い》(ヴェルサイユ宮殿美術館)などが知られる。さらに競馬や狩猟の画面も描いた。 オラースは初め父の下で絵を学び、その友人であった新古典主義を代表する画家フランソワ=アンドレ・ヴァンサン(François-André Vincent, Paris, 1746-Paris, 1816)に1810年まで学んだ。コレージュ・ド・カトル・ナシオンで教育を受けており、教養人でもあった。父を継いで戦争の場面を描き、馬を好んで取り上げた(《競馬の出走》、1820年頃、ニューヨーク、メトロポリタン美術館)。父カルルに1808年から学んだテオドール・ジェリコ―との親交も、オラースの制作を考えるには重要であろう。ボードレールは軍隊が嫌いで、ヴェルネの人気と自然主義を批判し、「オラース・ヴェルネ氏は絵を描く軍人だ」と述べている。 かれは1812年にパリ防衛の功績から、ナポレオンからレジオン・ドヌール勲章を受けた。この経験は《クリシーの門》(1820年、ルーヴル美術館)に結実する。ところが1822年のサロンに出品しようとしたこの傑作は、反王権的という理由で他の6点とともに展示を拒否された。かれはアトリエで40点余りを展示することに決め、多くの人が詰めかけたという。国王シャルル10世はオラースを認め、1826年にレジオン・ドヌール勲章を授け、学士院会員に選出した。《ヴァチカンの装飾を命じるユリウス2世》をルーヴルの天井画として完成させると、1827年のサロンにフランス王フィリップ2世が神聖ローマ帝国などの連合軍に勝利した《ブーヴィーヌの戦い》(ヴェルサイユ宮殿美術館)を出品して喝采を博した。翌28年からはローマのフランス・アカデミーの院長を、ドミニク・アングルに交代する34年まで務めた。 1835年以降、復古王政以来オラースの庇護者であったルイ=フィリップがヴェルサイユ宮殿に設けた歴史美術館のために、第一帝政下の《近衛兵を閲兵するナポレオン》(1836年)や《ワグラムの戦い》(1837年)を、同時代のアルジェリア戦役から《コンスタンティノープルの攻囲、1837年》(1838年)など大作の注文を受けた。かれは1833年以降、しばしばアルジェリアを訪れているが、近東への関心はその風俗とともに聖書の背景を知りたいというかれの意思を表すものといえよう。広大な戦場で繰り広げられる戦闘の迫力があり精緻な描写、野営地での兵士たちの暮らし、異国の風俗、軍人の肖像などにかれの個性が刻まれた。宗教画や風俗画も手がけている。 1855年のパリ万国博の絵画展では、アングルやドラクロワとともに大家のひとりとして特別室を与えられて作品を展示した。 1862年12月、画家が重篤だと知ったナポレオン3世は、レジオン・ドヌール勲章のグランオフィシエ賞を授けた。翌1月17日、栄光に包まれ尊敬を集めた画家は亡くなった。
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