JP
やさしい日本語
ON

COLLECTION DETAILS収蔵品詳細

東海道五十三次 原(甍富士) Fifty-three Stations of the Tokaido: Hara (Moonlit Mt. Fuji Reflected on Tiled Roof)

昭和39年(1964)10月/木版多色刷

32.5×46.0cm

画像のご利用について
教育 非商用 商用

SUMMARY作品解説

東海道五十三次の十三番目の宿場として知られる原宿は、現在の静岡県沼津市にあたる。原の地名は、湿地帯だったこのあたりを「浮島ヶ原」と呼んでいたことに由来し、ここから眺める雄大な富士の偉容は街道一とも評され、歌川広重をはじめ多くの絵師たちによって描かれてきた。 昭和33年(1958)、関野準一郎はアメリカの日米交流団体、ジャパン・ソサエティの招きでアメリカ各地を訪問し、帰路はヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めた。この一年間に渡る欧米訪問の体験から、帰国後はそれまで銅版画で行っていた風景画制作を木版画でも手掛けるようになり、色彩も明るく鮮やかなものとなった。関野はこの欧米訪問を契機として、東海道をはじめとする街道シリーズを制作することを胸中密かに決意し、帰国後の同35年(1960)から「東海道五十三次」の制作を開始した。 「原(甍富士)」は、関野が展覧会出品制作の合間を縫うようにして毎年数点ずつ制作していた「東海道五十三次」シリーズの一枚である。本作を制作した同39年(1964)には、他に「沼津(なまこ壁)」、「桑名(句碑)」、「亀山(武家屋敷)」が完成している。本作の制作について関野自身が次のようなエピソードを語っている。 「富士を描いて、苦心惨憺、描きかけ失敗作が部屋に散乱している画室に、泥酔した駒井哲郎が乱入して、それを見て言った。「関野君も、とうとう富士を描くようになったか」。富士は通俗な売り絵になるばかりだ。まだ富士を描ける齢ではないぞと、慨嘆したのであろう。 確かに蒼空いっぱいにひろがる崇高な富士は苦手だ。「原」では美しい富士山に、かぶとをぬいで写生を投げ、宿に帰って、一杯やることにした。夜中に手洗いに起きた。青白い月の光が、キラキラと甍に降っている。その向こうのウルトラマリンの大空に凄艶な富士山。「甍富士」——これを版画に作ろう。甍に投影した富士の画題を得、興奮して、小時、眠れなかった。」(『街道行旅―関野凖一郎画文集』、美術出版社、昭和58年) 夜の甍に、月の光に照らし出された富士が映り込むという詩情あふれる光景が、幾何学的な構図と単純な色彩で見事に表現されている。甍と富士という斬新な画題であるが、画家は同34年(1959)にはすでに甍をテーマにした作品「フレンツェの甍」を描き、国際版画展で高い評価を得ている。またその後も「甍12題」と題したシリーズを手がけるなど、「甍」は関野が終生追求したモチーフの一つでもあった。

ARTIST作家解説

関野準一郎

Sekino Junichiro1914-1988

青森県青森市に生まれ、東京都調布市で没する。旧制青森中学校在学中に、級友たちの版画同人誌に参加し、木版画制作を始める。青森市に住んでいた銅版画家、今純三から木版画に加え、銅版、石版の技法を学ぶ。18歳で日本版画協会展に初入選。画家として身を立てることを決意し、昭和14年(1939)、25歳で上京し、創作版画の中心的存在だった恩地孝四郎の門を叩く。山口源とともに、恩地のもとで版画研究会「一木会」を発足させる。同26年(1951)、杉並区高円寺にあった自宅に「火葬町銅版画研究所」を開設し、駒井哲郎とともに、浜田知明をはじめ、加納光於や小林ドンゲら若い世代に銅版画に関する知識を伝える。同33年(1958)、ジャパン・ソサエティの招きでアメリカ各地に滞在し、木版画についての講義や実演を行い、帰路ヨーロッパ各国を外遊し見聞を広げた。この一年間に渡る海外の経験は日本の風景を見直す契機となり、帰国後は「東海道五十三次」や「奥の細道版画柵」をはじめとする街道シリーズを手がけた。一方で、モデルへの深い洞察に基づく人間味溢れる描写や浮世絵を思わせる表現など、多彩な肖像画によって魅力ある人物像を生み出した。

同じ作家の作品一覧

INFORMATION作品情報

出品歴

EXPLORE作品をもっと楽しむ

全国の美術館・博物館・アーカイブ機関を横断したプラットフォームでコンテンツを検索・閲覧でき、マイギャラリー(オンライン展覧会)の作成などができます。

CURRENT
EXHIBITIONS現在開催中の展覧会