マリー・フランソワーズ・コンスタンス・マイユール・ラマルチニエール( Marie Françoise Constance Mayer La Martinière)の作品が 1件見つかりました。
Marie Françoise Constance Mayer La Martinière 1775-1821
フランス革命から復古王政期にかけて活躍した女性画家。肖像画や風俗画、さらに歴史画まで手がけた。 父ピエールは実業家で母はメリヤス商のルノワールの娘で、フランス革命後にフランス文化財博物館を創設したアレクサンドル・ルノワール(Marie1 Alexandre Lenoir, 1761 -1839)はおじにあたる。 ダヴィッドのライヴァルのジョゼフ=ブノワ・シュヴェ(Joseph-Benoît Suvée, 1743 -1807)と、ジャン=バティスト・グルーズ(Jean-Baptiste Greuze、1725-1805)に学んだ。1801年のサロンに出品した《父といる自画像》は2人の師の影響が歴然としている。装飾物をはぎ取った簡素な場面設定はシュヴェを、愛らしい女性像と親密な情景の描写はグルーズを想起させずにはおかない。父が指さすラファエロの頭像を見つめるコンスタンスの真剣な眼差しは、彼女の画家としての大望の表現といえよう。 マイユールにとって、ピエール=ポール・プリュードン(Pierre-Paul Prud'hon, 1758- 1823)との出会いは生涯を決する出来事だった。1803年に妻と別居した画家に、友人たちはマイユールを弟子に取るように勧めたという。プリュードンが1805年頃にパステルで描いた《胴着を着たコンスタンス・マイユール》は、制作中の弟子が師の来訪に思わず顔を向けた瞬間をとらえ、溌溂とした表情の聡明な女性画家を映しだす。かれの愛情が画面からにじみ出ている。プリュードンがエスキースを描きマイユールが油彩画を完成するという共作関係は、1804年の《財産の軽蔑》(エルミタージュ美術館)に始まり、1808年の《ウェヌスの松明》、1819年の《幸せの夢》まで続き、いずれもサロンに出品された。冷ややかな大理石のような絵肌と陰影を用いたコレッジョ風の人体の表現は、プリュードン由来のものだが、テーマには女性画家の時々の心情が投影されているにちがいない。彼女の死によって中断した《不幸せな家族》(所在地不明)は、プリュードンが完成させて1822年のサロンに出品して反響を呼んだ。 マイユールはプリュードンの広く認められた愛人となったが、かれの多くの子供たちの面倒もみて経済的にも助けた。女性画家として活動することの困難や将来への不安とともに、妻が死んでも結婚する意志のないプリュードンに絶望して、マイユールは1821年5月26日、愛人の剃刀で喉を切って自殺した。《幸せの夢》はフォルトゥーナ(運勢の女神)とアモルが舵を取る小舟に、夫に抱かれて眠る妻と子が描かれる。マイユールの願った世界は、絵画の世界でしか実現しなかったのである。