「長坂の戦い」で知られる古戦場は、荊州(けいしゅう)市から車で約2時間(約70キロ)あまり走った湖北省の当陽県内にありました。荊州は「三国志演義」の物語120回のなかで37回も舞台となった場所として知られています。昔は一面の櫟林(くぬぎばやし)だったそうですが、今はゆるやかな坂にそって賑やかな商店街がならんでいました。
長坂の町の中心に入ると目抜き通りの中心に「趙雲」の大きな騎馬像がそびえ立っていました。
その傍らには長坂坡(ちょうはんは)公園の入り口があり、中にはいると趙雲の字(あざな)を冠した「子龍閣」という建物や、劉備の子・阿斗を抱えて疾駆する趙雲の騎馬像、勇渾な筆致の「長坂雄風」と刻まれた石碑があり、その壮絶な戦いを物語っていました。
当時、魏の曹操は、荊州を攻めるために50万人という大群を従えて南下しました。弱小軍団の劉備は勝ち目のない戦いと知って、家族や一般市民を連れて南へ南へと撤退しました。しかし曹操の猛追は激しく、とうとう劉備陣営の背後に迫ってきました。多くの兵隊や家族は殺され、みなちりぢりになってしまいました。劉備はここで妻子を置き去りにして逃走してしまうのですが、そうしたなか、さっそうと騎馬にまたがって現れたのが趙雲でした。趙雲は勇敢に敵陣のなかに入って、あっというまに劉備の子の「阿斗」を救いだし、そのあとも劉備の妻の甘夫人を守りながら孤軍奮闘し、一人で50人あまりの武将をけちらし敵を震え上がらせたと伝えられています。
この戦いによって趙雲は「虎威将軍」と呼ばれ、後の世までもその勇姿が語り継がれることになりました。
趙雲は、劉備や関羽、張飛が亡くなったあとも、蜀軍の重要な将軍として仕え孔明の側近として生涯にわたって忠義を貫いたといわれています。
「大三国志展」では、「阿斗」を救いだして疾駆する名場面を今に伝える、装飾タイルや、建物の欄干に装飾されたと思われる木彫の浮き彫り、粉彩の技法でこの場面を表した陶磁器の瓶が展示されています。また、天津の年画(正月に飾る絵画)では、劉備が家族や一般庶民を連れて、しんがりとなって守る姿が、多色刷りの木版画で、見事にその様子を伝えています。
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