徐州の敗戦で、一時曹操のもとに身を寄せていた関羽は、手厚くもてなしてくれた曹操への返礼として「白馬の戦い」で猛将・顔良を一気に打ち取り、曹操軍を勝利に導く場面がありますが、その後、主君の玄徳の所在を知ったために、関羽は曹操のもとを去り玄徳のもとへ向かいます。
関羽は曹操のもとに丁重な別れの手紙を残し、曹操のもとを去っていくのですが、覇陵橋にさしかかった時、うしろから曹操や張遼らが追いすがって関羽を見送ったとされています。英雄は英雄を知るという言葉がありますが、人材をことのほか愛してやままかった曹操は、心から関羽のような英雄を得たいとのぞむのですが、関羽を自分のもとに置くことは叶わず、反対に関羽の主君・玄徳を思う心の深さに感動します。そして別れを告げるために覇陵橋へと見送りにいくのです。
覇陵橋は許昌の市街地から西へ行ったところにありますが、今は広々とした公園になっていました。曹操と関羽の別れの場所は「三国志平話」では長安と記されていたのですが、その後、明時代嘉靖年間に書かれた「演義」で許に改められ、この地に覇陵橋が再現されたようです。
覇陵橋のほとりにはどことなくユーモアのある関羽の大きな石像が置かれており、小さな石橋のたもとには青々とした木々がうっそうと茂り、ゆるやかに水面が揺れていました。
また、許昌市街の中心には、囚われの身となっていた関羽が「春秋」を読んだとされる「春秋楼」や関帝廟などの建物があり、1800年前の動乱の時代を忘れさせるような静かなたたずまいをみせていました。
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