三国志の調査にでてしみじみと感じました。それはあまりにも中国の大地は広大であるということでした。1800年前の武将たちは天下を取るために、この広大な大地を縦横無尽に駆けめぐりましたが、それにしてもその行動力とバイタリティーは並はずれたものだったと思わざるをえないのです。今は交通機関が発達しているので、車や列車、飛行機や船などを利用すれば短時間でどこへでも行くことが出来るのですが、日本人の私たちにとっては、三国志の舞台は果てしなく雄大で、想像していたスケールをはるかに越えていました。
調査の日々、そのほとんどの時間が移動のために費やされてしまうために、打ち合わせは極力短時間ですませ、資料の実見や遺跡などの視察と調査にできる限りの時間をあてました。一日の調査を終えると走行距離が1000キロを超える日が何日もありました。毎日が移動の連続のため、宿舎のホテルに夜中に入り、翌朝すぐに次の目的地に向かって出発するという毎日でした。
展覧会をつくるためには、机上で文献資料にあたりながら三国志を学習し、関係者と交信を繰り返すことによって準備を進めることはできるのですが、私たちはあえて三国志ゆかりの地を実際に歩き、文物や資料を実見しながら展覧会をつくりあげていく方法を選びました。
重慶から約600キロを下る三峡の船旅は、凍えるような真冬の寒さのなかを耐えながらの苦行のような調査行でしたが、三国志の重要な舞台となった長江沿いの旧跡を巡ることによって、私たちのイメージのなかで、この物語がより立体的なものとして感じられるようになってきました。
重慶で乗船してから4日目の午後に茅坪(ほうへい)に到着しました。久方ぶりに陸(おか)に上がることができたのですが、何日も船に揺られっぱなしの生活をしていた関係で、地上を歩いていても船の揺れが続いていました。
茅坪から少し走ると、三峡ダムが見えてきました。高台に上がってダムを見下ろすと、ダムはたっぷりと水をたたえ、せき止められた水は豪快な水しぶきをあげて落下していました。上流のほうを眺めると、長江の水面も山々も空も全てが真っ赤な太陽によって染め上げられていました。
大きな太陽が荘厳な一日のしめくくりを演出しながら、ゆっくりと落ちていきました。
私たちの一行は、その後、
荊州(けいしゅう)、
当陽、襄樊(じょうはん)を経て武漢へと調査をつづけました。
そしていよいよ中国史上に語り継がれる「赤壁」の地へ。孔明の「天下三分の計」を決定づけたこの地へ行くにも、武漢から4時間の道のりを走らなければなりませんでした。
赤壁市は田舎町で質素な建物がならんでいました。町の中心部から坂道をのぼると高台の上に赤壁市博物館がありました。
古い木造建築の展示室には刀剣、矛などの貴重な文物が公開されていました。
特に目をみはったのは、赤壁の古戦場あとから発掘されたばかりの矢じりが、無数に保存され、その一部が展示されていることでした。数にして約1000。まだ一度も館外に公開されたことがないとのことでした。
この話をききながら「三国志演義」に登場する有名な話を思い出しました。
——曹操の20万余におよぶ軍勢が、呉の国に向かって進軍してくるなか、孔明は逡巡する孫権に対して断じて曹操に立ち向かうべきと主戦論を主張する。その孔明に対して周瑜(しゅうゆ)は孔明の智恵を試すために、10日間で10万本の矢を作れと命令する。濃霧にけむる長江を、藁束を満載したおとりの船を敵陣に走らせる孔明。敵陣から10万本の矢を受けた船は何事もなかったように無傷で凱旋する——。そして天下分け目の戦い「赤壁の戦い」のクライマックスがやってくるのです。
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