孔明が罷免した人物—廖立の場合
次に廖立(字は公淵)の場合である。彼は荊州武陵郡臨県の人であるが、劉備が荊州牧になった時に召しだされた。劉備が蜀に攻め入ると、残っていた孔明に孫権が使者を派遣してきたが、その使者を通して「誰が政治に役立つか」と質問したところ、孔明は「統と廖立」と答えていた。それほどまでに期待されていた人物だったのである。
しかし、劉禅が皇帝になった後、廖立は自分の才能・名声が孔明の次ぐものだと思っていたにもかかわらず李厳らの下に置かれたことに不満を抱き、らに意見を述べた。ただ、この「意見」がなかなか過激なもので、『三国志』巻40廖立伝にある文をまとめてみると
先帝(劉備)は漢中を取るべきときに呉と荊州を争い、漢中に向かったときに関羽が敗れて荊州を失った。(荊州での)関羽は作戦行動がでたらめで、突進したために敗れた。向朗・文恭は平凡な連中。郭攸之は他人(おそらくは孔明のこと)のあとについていくだけ。(塩の専売などで税収を増やしている)王連のような俗人が政治を握っているから民衆を疲弊させている。
となり、毒舌のオンパレードである。この「意見」について報告された孔明は「先帝を誹謗し、大勢の臣下の名誉を傷つけた」として廖立を庶民とし、流罪としている(中林史朗〔著〕『諸葛孔明語録』(明徳出版社 1986年)132頁によると、223年5月から226年末までのことと推定されている)。
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