統(179年〜214年)「鳳雛」
他人を実際の能力よりも高く評価して志ある者を育てることに留意していた「教育者」でもある軍師。
字は士元。襄陽郡の出身。地味でもっさりしていたため、なかなか評価されなかったが、司馬徽から高く評価され、叔父の徳公からも「鳳雛」に譬えられた。『三国志演義』などの小説では、赤壁の戦いの際に曹操軍に「連環の計」を仕掛けたとされるが、歴史上ではそのような事実はない。劉表の時代に南郡の功曹となっており、周瑜が南郡太守となった際にもそのまま仕えた。周瑜が亡くなると、呉に遺骸を送っていき、呉の人々と交流を深めた。劉備は統を耒陽県令としたが、うまく行かず免官となった。魯粛や諸葛亮が劉備にとりなしたので、劉備は統と語り合い、親愛されるようになった。劉備が蜀に出兵した際に付き従って計略をめぐらしていたが、城を攻撃中に流れ矢に当たって戦死(36歳)。
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