朱然(182〜249年)「静かなる呉の柱石」
関羽の捕獲や夷陵の戦いにも貢献し、魏軍とも互角に渡り合ったいぶし銀の将軍にして影の功労者。
字は義封。丹陽郡故の出身。朱治の姉の子で、13歳の時に朱治の養子となる(もともとは施氏)。ともに勉強したことがある孫権が主になると、19歳で会稽郡余姚県の長となる。219年には関羽討伐に参加して、潘璋とともに関羽の逃げ道を遮断し、潘璋の配下の馬忠が関羽を捕らえるのに貢献。その後、危篤に陥った呂蒙は「後継者」に朱然を指名し、220年に江陵に着任した。夷陵の戦いでは劉備軍の先鋒を破り、さらに退路を断って劉備を大敗させた。その直後、魏軍が江陵を攻撃。江陵は孤立し6ヵ月以上魏軍の包囲は続いたが、朱然が撃退し、名が敵国にまでとどろいた。『三国志演義』では、劉備を追撃中、救援に来た趙雲に殺されるが、史実ではない。その後も江陵にあって呉国を支えた。249年に死去(68歳)。1984年に安徽省馬鞍山市で彼の墓が見つかったが、この墓から出土した朱然の「刺」(名刺)は、今度の「大三国志展」で展示される予定。
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