『魏志』武帝紀(曹操についての年代記)を見ると、曹操が赤壁で戦った相手は劉備であり、孫権は劉備のために合肥を攻めたとされています。吉川英治『三国志』や『三国志演義』などに慣れ親しんだ人々にとっても、これは意外な書かれ方だろうと思います。大半の小説でも、赤壁では周瑜をはじめとする呉の人々が中心になって活躍しております。「赤壁での曹操の相手は劉備でした」といわれても、かなり理解に苦しむのではないでしょうか。
さらに武帝紀では、曹操は劉備と戦ったが「不利」になり、加えて疫病が発生して官吏・兵士が多数亡くなったので撤退した、と書かれています。魏の側の公式見解では、「不利になったうえに疫病が起こったので、曹操自身の判断で撤退したのだ」とされており、あくまでも「曹操は敗れていない」のです。
『呉志』の場合ですが、呉主伝(孫権についての伝記・年代記)を見ると、「孫権は劉備と協力して曹操を打ち破った」とあります。その結果、曹操は残った軍船を燃やして撤退し、さらに曹操軍は飢えて流行病も広がり大半が死んだ、とされているのです。このような呉主伝の記録によると、「曹操の撤退の主な原因は孫権・劉備連合軍に破れたため」となります。そして、曹操側の疫病の流行は、あくまでも孫権・劉備連合軍に敗れた後であることを記すことで、魏の側の公式見解を否定しているのです。
その他にも『呉志』の周瑜伝・黄蓋伝などを見ますと、当然ながら劉備らよりも周瑜・黄蓋をはじめとする呉の武将たちの活躍が描かれています。例えば、『三国志演義』にも出てくる火計の様子などです。黄蓋が曹操に「降伏したい」というウソの申し入れをして油断しているところに、火をつけた船を突っ込ませるというあの場面です。この話は『呉志』にも載っているのです。
次回は、『蜀志』の内容を確認したいと思います。
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