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フリードルについて
フリードルは、1898年にウィーンに生まれ、3歳で母親を亡くした後、文房具店を営む父親に育てられました。早くから美術が大好きだった彼女は、ウィーンで写真家や複写技術者として訓練を受けたのち、ヨハネス・イッテンから数年にわたり美術の手ほどきを受けました。1919年にはドイツ・ワイマールの総合芸術学校バウハウスに学び、ウィーンっ子の同僚らとともに「ユダヤ人のインテリ集団」として注目を集めました。
イッテンや、ヴァルター・グロピウス、パウル・クレー、オスカー・シュレンマー、ゲオルク・ムッヘ、リオネル・ファイニンガーなどのバウハウスの中心的な教師たちから、決定的な芸術及び教育上の影響を受けたフリードル。彼女にとってバウハウスでの修練は、後の創作活動と人生における原点となりました。
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「絵のファイル用の表紙」
1931-32年
写真コラージュ、テンペラ、紙
「子供を育む」
1925年
木炭、紙![]()
1923年には、視覚芸術ワークショップをベルリンで創設。ここでテキスタイルやレース、宝飾品、書籍をデザイン。その後、アトリエをウィーンに移し、邸宅やアパート、店舗といった建築デザインも手掛けました。また、台頭するナチスに対して、反ファシズムのポスターを創作。1934年には反ファシストとして逮捕・投獄されました。 釈放となったもののウィーンからは追放となりチェコへ亡命。そこでパヴェル・ブランデイズと結婚します。
創作活動を続けながら、ドイツ、オーストリアからの亡命者や地元のユダヤ人の子供たちに美術を教えました。
「尋問」
1934年
油彩、カンヴァスフリードル自身が反ファシストとして尋問された恐怖と怒りの高ぶりを描いたもの。尋問官の卑劣で醜悪な言葉に、耳が燃えるように熱くなった。ただ、同じ人間とは思えない尋問官の獣のような歯と、冷酷なまでのタイプの音が部屋に鳴り響いていた。
しかし、再びナチスの進軍の波が、フリードルに容赦なく押し寄せました。パレスチナへ亡命するビザを友人が手配したにもかかわらず「この子たちを置いては行けない」と拒否。彼女は子供たちとともにテレジンの強制収容所に送還されたのです。
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