船はゆっくりと静かに長江を下っています。月は寒空に冴え冴えと輝き、川面には月影が映っています。
三国の時代、人々は蜀の国に入るために、険しく切り立った岩壁に作られた小さな桟道を、へばりつくようにして歩き続けなければなりませんでした。
近年、下流に三峡ダムができたことによって川の水位は平均して約60メートルも上がったといわれています。そのためか所々に当時の桟道が水面ギリギリのところで見え隠れしていました。今はたっぷりと水をたたえた長江がゆっくりと下流へと流れているのですが、当時はきっと流れも速く、人を寄せ付けないような原初の大自然の美しさをあらわしていたことでしょう。
古来から李白をはじめ多くの詩人たちが、繰り返しこの三峡の美しさをうたいつづけてきましたが、水位が上昇した今でもその風景の魅力は、私たちの想像をはるかに超えるものでした。水面からそそり立つ岩肌や移り変わる山々の姿、川の流れと山々が織りなす千変万化の景色。抜けるような青空。夜になると無限にひろがる星座。三峡を往く旅は、自分という一個の小宇宙としての存在を気付かせ、生命が過去から未来へと永劫にながれていく生死の世界を感じさせてくれる旅でもありました。
早朝6時ごろ、船はたっぷりと水をたたえた湖のようなところをゆっくりと下っていました。はるか前方の島の頂上を見上げると城郭らしきものが見えはじめ、それが白帝城の一部であることがわかりました。もともとは地続きでしたが水位が上がったためにこの一画は、周囲が水に囲まれてしまい単独の島になっていました。
途中で小さな船に乗りかえ島へ向かいました。早朝だったせいか朝靄がたちこめていました。船を降りるといきなり急な階段が何百段も続いていました。同行の文物交流中心の陳烈先生は船着き場で待っていた籠に乗せられて上機嫌で上がっていきました。木立の間をぬってさらに長い階段を上がっていくと、古色をおびた城の正門に着きました。

反り返った屋根、青い屋根瓦、壁には彩色が施されていました。

正門を背にして眼下に目をやると、長江が悠久の時を刻むように流れ、その向こうには巨大な山々が幾重にも連なっていました。
正門をくぐると前殿があり、郭沫若先生の筆による白帝城の三文字が掲げられていました。

正殿には劉備が亡くなっていく最期の場面が塑像で作られていました。今にも息をひきとろうとする瀕死の劉備、かたわらで主君の容態を気遣う孔明。劉備の遺言を受ける息子——。
『三国志演義』によれば、劉備は義兄弟の契りを交わした関羽の弔い合戦のために、部下の反対を押し切って無謀にも呉の国へ攻め入りました。敗北ののち蜀の国へと長江を遡った劉備は、途中で重い病にかかりこの白帝城にたどり着きました。劉備は、志なかばにして自身の寿命が尽きていくことを悟り、孔明を呼びよせ万感の思いをこめて、蜀の未来の一切を託しました。劉備が亡くなった場所は定かではありませんが、白帝城の近くにある「永安宮」であったと伝えられています。

223年4月、劉備は63歳で亡くなりますが、この白帝城を巡っていると、1800年の時をこえて三国の統一を夢見てその生涯を戦乱に明け暮れた劉備をはじめとする、先人たちのロマンや苦心孤忠の思いが伝わってくるのです。

白帝城をあとにすると、三峡の風景はいよいよ険しくなってきました。白帝城のある奉節県から宜昌にいたる約200キロメートルにわたって、その風景は瞬間瞬間変化し目を離すことができないのです。
5世紀に記された『水経注』には、その絶景をこのように詠っています。
「三峡七百里
両岸に山連なり
欠けるところなし
重なる岩
繰り返される険しき峰は
天を隠し日を覆い
正午 午後にあらざれば
日月の光
見るにあたわず」
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